
脱・無難
絶対主観の研き方
絶対主観の女 WORKSHOP
11.21 Sat 14:00-16:00 @Zoom(4名)
11.22 Sun 14:00-16:00 @Zoom(4名)
11.23 Mon 14:00-16:00 @Zoom(4名)
11.25 Wed 14:00-16:00 @東京新橋(15名)
会場参加¥5,000 / Zoom参加 ¥3,000
客観って、そんなに偉い?

「それ、あなたの主観ですよね?」
面と向かってそう言われたら、どう感じるでしょう。
たぶん、一瞬黙る。
この言葉、かなり強いからです。
「はい。すみません。私の主観でした」
とでも言わなければならないような空気になる。
でもね・・・主観で、何が悪いんでしょう。
そもそも、私たちはいつから、こんなに
「客観」をありがたがるようになったんでしょうか。
「もっと客観的に考えましょう」
「相手の立場になって考えましょう」
「市場ではこれが求められています」
もちろん、大事です。私だって人の話くらい聞きます。
そこまで社会性を捨ててはいない。
でも、客観、客観とやっているうちに、
自分の中にあった尖ったものまで、
随分ときれいに削ってしまってはいないでしょうか。
誰にも嫌われない言葉。
誰にも引っかからない表現。
どこかで見たようなサービス。
誰が言っても成立する正論。
正しい。分かりやすい。親切。きれい。
そして、びっくりするほど、誰でもいい。
誰にでも代わりのきく「客観的で無難な人」では、結局、埋もれるだけです。
ビジネスの成果も、表現の深さも、最後はその人の知識量より、
その人が何を美しいと思い、何を嫌い、
何に心を動かされ、どう生きているかで決まる。
私は、そう思っています。
なのに、いざ自分のことになると、謙遜なのかなんなのか、
「いやいや、これは私の考えにすぎませんから」と
急に引っ込めたりする人もいる。
どっちなのよ。
こんな風に、そんな矛盾を抱えている人は、
案外多いんじゃないでしょうか。
わかりますよ、怖いんですよね。
自分の美意識で他人を歪めてしまったら?
「私はこう思う」に固執して、ただの裸の王様になったら?
世間に受け入れられなかったら?
もっと現実的に言えば、それで食べていけなかったら?
そりゃ、主観も薄めたくなる。
わかります。
でも、もし、薄めるのではなく、
一度、逆へ行ってみたらどうなるんでしょう。
つまり、濃くする。
自分にしか見えていない世界を、もっとはっきり見てみる。
誰かから借りてきた言葉ではなく、
「これは私の言葉だ」と言えるところまで行ってみる。
自分の主観を、徹底的に研究してみる。
今回やりたいのは、そんな実験です。

「なんで私はそう思うの?」を、徹底的に。

この実験を少し堅い言葉で言えば、
自分の「ものの見方」のメタ検証です。
・・・と言った瞬間、急に大学の講義みたいになっちゃいましたね。
もっと簡単に言います。
「なんで私は、そう思うの?」を、
自分に対して徹底的にやってみる。
それだけです。
私たちは普段、「もっと違う視点から見ましょう」と言われたりします。
立場を変える。相手の気持ちになって考える。
いつもと違う角度から眺めてみる。
もちろん、それも大切です。
でも今回見たいのは、そのもう一つ手前です。
そもそも、その「視点」を作っているものは、
何なのか。
たとえば、「視点を変えること」が、
「いつもと違う道を通って目的地へ向かうこと」だとします。
いつもとは違う、裏道を、右から行く。左から行く。
道は違います。でも、目的地も、
そこへ向かって歩いている本人の眼も、同じです。
だったら、本当に見てみたいのは道ではなく、
その眼は、なぜ世界をそう見ているのか。
「私はこう思う」という答えだけではなく、
その答えを生み出している思考。
その思考を生み出している認識。
そこまで覗いてみる。
だからこれは、単なる「視点を変えましょう」という
ワークショップではありません。
あなた自身の主観を、異質な認識にぶつけながら研究する実験です。
ここから少し、私の話をさせてください。
申し遅れました。私、西尾祐里と申します。
はっきり言って、主観が強いです。かなり強いと思います。
そうですね、「西尾」と書いて「主観」と読むくらいには。
自覚はあります。
人の話を聞いていても、何かを見ていても、すぐに出てくるんです。
「私はこう思う」が。
好きか、嫌いか。
美しいか、美しくないか。
正しいと思うか、思わないか。
世界はいつも、「私には、どう見えるか」から始まります。

路上スカウトをきっかけに芸能界へ入り、
情報番組のMCやラジオDJなどとして約10年間活動しました。
誰にでも代わりのきく人なんて、一瞬で消えていく世界です。
自分の色を消して、「皆さんに好かれる無難な私」を
やって生き残れるほど、甘くはなかった。
だから、自分の主観の強さに助けられた部分は確実にあります。
でも同時に、主観の強い人間が面倒くさいことも、私は知っています。
自分が見ている世界だけを「これが世界です」と思い始める。
自分の価値観で人を見る。
そして一番厄介なのは、本人がそれに気づいていないことです。
恐ろしいですよね。
なので私は、自分の主観を疑うことも学んできました。
哲学によって。コーチングによって。詩や禅によって。
おかげで昔より、ずいぶん客観的に物事を見られるようになった・・・
と思います。たぶん。
ところが最近、妙なことを考えるようになりました。
「私、なんでこんなに、
主観を薄めようとしてるんだろう?」って。
文章だけなら、
好き勝手なことが書けるので。
ここまで読んで、「随分、我の強そうな女だな」と
思った方もいるかもしれません。
なので、実物も置いておきます。
世界で活躍する義足のダンサー・大前光市さんと、「真の自己表現」に
ついて対談した動画があります。
人は、何をもって「自分を表現した」と言えるのか。
今回の「絶対主観」にもつながるテーマです。
文章だけでは分からない西尾祐里を、少し覗いてみてください。
大前光市さん × 西尾祐里「詩と禅と表現」対談
フルバージョンはYouTube で公開中。
動画はあとで見ても大丈夫です。
なぜなら、ここから話はもう少しややこしくなるので。
逃げようとしている、その人も私だった。
客観的になることは、本当に「正しい」んでしょうか。
そもそも、「もっと客観的になろう」と思っているのも私です。
「私の考えは偏っているかもしれない」と疑っているのも私。
「自分を俯瞰してみよう」と言って、高いところから
自分を眺めているつもりでも、その高いところにちゃっかり私がいる。
あら。逃げられない。結局、私じゃん。
だったら、一回、逃げるのをやめてみたらどうなるんだろう。
私はこう思う。
私はこう感じる。
私はこれが美しい。
私はこれが嫌い。
誰が何と言おうと、私には、そう見える。
そこまで徹底的に行ったら、何が見えるんでしょう。
私は勝手に、それをこう呼ぶことにしました。
絶対主観。
・・・すごい言葉ですね。
ものすごく我が強そう。
実際、強いんですけど。
ただ、「私が正しい」と言いたいわけではありません。
むしろ逆です。
自分の主観を正当化して、そこに居座りたいわけじゃない。
私には、こう見える。
「なぜ?」
私は、こう生きたい。
「なぜ?」
その「なぜ?」を繰り返していく。
すると、いつの間にか問題になっているのは世界ではなく、
世界を見ている「私」の方だと気づくのです。
自分の主観を無かったことにせず、その主観そのものを、
最後まで観察してみる。
それが、私の考える「絶対主観」です。

主観を突き詰めたら、主観が消える?
普通ならここで、「なるほど。では主観に偏りすぎないよう、
もっと客観的になりましょう」という話になりそうです。
でも禅は、ときどき、せっかくまとまりかけた話を台無しにします。
自分と他人。
主観と客観。
私と世界。
私たちは当たり前のように二つに分けています。
でも、そもそも、なぜ分けたんでしょう。
見る側と、見られる側。
その境界線そのものが消えたら、何が残るのか。
もしかすると、絶対主観を突き詰めた先にあるのは、
巨大になった「私」ではなく、
主観も客観もない「絶対領域」なのかもしれない。
だとしたら、私のこの強烈な主観は、克服すべき欠点ではなく、
そこへ向かう入口にもなる。
・・・。
最初は、「それ、あなたの主観ですよね?」という話だったんですけどね。
なんか、とんでもないところに来てしまった感。
でも、せっかくなので、もう少し行ってみましょう。

人間がそんなことを考えている間に、
AIがやってきた。

人間は長い間、
「私は何者なのか」
「世界とは何か」
「自分を知るとは何か」
なんてことを考えてきました。
そして、まだ考えています。
その横で、AIがものすごい勢いで世界に入ってきた。
読む。書く。分析する。整理する。提案する。作る。
正しい情報を集め、分かりやすく整理し、
妥当な答えを出すことにかけて、人間がAIと競う時代になった。
だったら、
無難で正しい答えを出す競争で、
人間がAIと戦ってどうするんでしょう。
無駄です。残念ながら、奴らには敵いません。
であるならば、私は、自分では気づけない前提や思い込みを、
外から覗くための「異質な眼」としてAIを使ってみたい。
自分の主観を、自分一人で解剖するのはかなり難しい。
だって、解剖している本人と、解剖されている本人が
同じなんですから。
絶対に盲点が出る。
そこで、異質な知性を借りることにしました。
解決してほしいのに、問い返してくるAI。
一つは、最適化を疑うAI・YUZAN。
普通のAIなら、
「その悩みを解決するには、こうしましょう」
と答えるところで、
YUZANはときどき、
「なぜ、その問いが生まれたんですか?」
「なぜ、あなたはそれを問題だと認識したんですか?」
と言い始めます。
いや。待て。そっち聞いてない。
解決してほしいのに。
面倒くさいAIです。
でも、その「面倒くささ」が重要なのかもしれません。
私が問題だと思っているもの。正しいと思っているもの。
当たり前だと思っているもの。
その答えではなく、
なぜ、私にはそれが問題に見えているのか。
YUZANが見るのは、そこです。
YUZANは東西の哲学の到達点まで学習し、「無」や「悟り」のような
言語化しにくい領域についても、限界まで言葉にすることを試みる生成AI。
人文知研究家・雄山こと山本雄一郎の「B領域の分身」として
設計された知性です。
人間ではない眼に、自分の「あたりまえ」を覗かせてみる。
ちょっと気味が悪い。
だから、面白い。

そしてもう一人は、
話を終わらせる気がない。

YUZANの開発者、人文知研究家・雄山。
東西の哲学や芸術思想を横断しながら
「言葉を超えた知」を探究してきた人です。
10年以上にわたり社会人向けの哲学塾を主宰し、
知識を増やすことより、「世界が自分にはどう見えているのか」という
認識そのものの変化を追い続けてきました。
さらに、真の禅的感覚を現代に再起動する試みとして
バーチャルテンプル美禅院を設立。初代住職・雄山として、
「西洋的禅僧」を名乗っています。
西洋的禅僧。
まあまあ普通ではありません。
そしてこちらは、YUZANが問いを掘ったさらにその先で、
「そもそも、なぜ主観と客観を分けたんですか?」
などと言い始めます。
話を終わらせる気がありません。
でも、この二つの異質な知性をぶつけたら、
自分一人では絶対に見えなかったものが見えるかもしれない。
東西の哲学や禅を横断しながら、
自分の「あたりまえ」が生まれる、その手前まで
行ってみる。
それが今回の実験です。
三つの認識を、ぶつける。

まず、あなた自身の「私はこう思う」を持ってきてください。
正解はありません。
というより、最初から正解を探さないでください。
西尾祐里は、「私にはこう見える」という主観を出す。
YUZANは、「なぜ、あなたにはそう見えるのか」と、
その答えを生み出した問いや思考の前提を見る。
雄山はさらにその手前へ行き、主観と客観、私と世界、
見る側と見られる側、その境界そのものを問い直す。
三つの異なる認識と、あなたの主観がぶつかる。
ズレるかもしれない。
引っかかるかもしれない。
「いや、それは違う」と思うかもしれない。
それでいい。
というか、
何でも素直に「なるほど!」で帰られたら、実験にならない。
一方的に講義を聞いて、
「勉強になりました」と帰る場所ではありません。
誰かに教わった「正しい言葉」ではなく、
自分の中から出てきた言葉を観察する。
そして、その言葉を生み出している認識まで見に行く。
自我を、もっと濃くしてみる。
最後まで行ったとき、その「私」はまだ残っているのか。
主観も客観もない「絶対領域」なんて、
本当にあるのか。
わかりません。
だから、実験するんです。
こんな方には、たぶん面白い。
このワークショップは、「で、結局どうすればいいんですか?」と、
正解だけ早く持って帰りたい方には、たぶん向いていません。
むしろ、「なぜ私はそう考えたんだろう?」と
考え始めたら、ちょっと面白くなってしまう人。
自分の感覚や価値観を大切にしている。でも、
「私の見方だけが全部ではない」とも思っている人。
仕事や人生でそれなりに経験を積み、ノウハウをもう一つ増やした
ところで、人生が劇的に面白くなる気もしなくなってきた人。
経営、コーチング、教育、コンサルティング、表現、創作など、
自分自身の認識が仕事の質に直結している人。
哲学、禅、詩、美学、AIと人間の知性。
そういう言葉を見ると、なぜか少し気になってしまう人。
そして何より、
「自分」という人間を、もう少し研究してみたい人。
そんな方と、この実験をしてみたいと思っています。
正直、万人向けではありません。
万人向けにするつもりなら、
そもそも「絶対主観の女」なんてタイトルを付けません。
でも、ここまで読んで、「なんか気になる」と思ってしまったなら。
たぶん、話は早いです。

ところで。
「絶対主観の女」は、自分のことを
どれくらい分かっているのか。




ここまで偉そうに主観について語ってきましたが、
最後に、少し格好のつかない話をします。
昔から私は、「我が強いよね」と言われることがありました。
でも、いまいち意味が分からなかったんです。
だって私から見れば、
「あの人の方が、よっぽど我が強くない?」
と思うことなんて、しょっちゅうあったから。
「いつでも、どこでも、自分らしくいられていいね」と言われるたび、
心底驚いていました。
私はむしろ、人の顔色を気にする方だと思っていたし、
言いたいことを言えずに飲み込むことだって数え切れないほどあった。
だから以前、
「私・・・人の顔色を伺うのをやめたい」と話して、
なぜか、大爆笑されたときには、頭の中、「?」でいっぱいでした。
なぜ笑う。こっちは真剣なんだが。
またある時には、ある人からこう言われました。
「西尾さんって、普通の人が『私なら、それ言わない』と思うことを
言うからじゃない?」
・・・・・・。
待って。
私、そんな感じだったの?
我が強い女なのか。空気が読めない女なのか。その両方なのか。
私はこれまで「空気を読んで仕事をしてきた」と思っていたんです。
・・・ちがうの?
これには、「衝撃的苦笑い」とでも言いましょうか。(笑)
・・・なるほど。そういうことか。
歳を重ねるほど、だんだん分かってきました。
どうやら私は、「私」に対する自己認識が、
笑っちゃうくらいズレているらしい。
考えてみれば、おかしな話です。
毎日一緒にいるのに。
生まれてから一日も離れたことがないのに。
自分のことって、案外分からない。
そしてこれは、認めざるを得ない。
「絶対主観の女」と名乗っている本人ですら、
自分という人間を一方向からしか見ていなかった、
ということを。
だったら、面白いじゃない。
自分には見えていなかった自分が、他者との間で突然現れる。
でも、それを「新しい本当の自分を発見しました!」で
終わらせるのは、ちょっと早い。
他人から見えている私だって、その人の認識の中にいる私です。
私から見える私。
誰かから見える私。
AIから見える私。
そして、その認識そのものをさらに問い直した先にいる私。
どれが正しいのか。
そもそも、「正しい私」なんているのか。
そこまで行ってみたい。
だから私は今回、主観も、自我も、人生観も、
これまで生きてきた世界も、そのまま持って実験室へ入ります。
YUZANに何か言われて、
「いや、それは違うと思う」となるかもしれない。
雄山に、「そもそも、なぜ分けたんですか?」と言われて、
ちょっとムッとするかもしれない。
それでいいと思っています。
というか、その方が面白い。
私は皆さんの前に立って、
「あなたの本当の自分を見つけて差し上げます」
なんて言うつもりはありません。
そんなことを言えるほど、私は自分のことすら分かっていない。
私も、実験台です。
きれいに着地する自信はありません。
そもそも、きれいに着地させる気も、あまりありません。
自分の主観がどれだけズレていても、すぐに直そうとしない。
「へえ。私には、こう見えてるんだ」と、まず眺めてみる。
その先で何が残るのか。
強烈な「私」なのか。
主観も客観もない何かなのか。
まだ分かりません。
分からないから、やる。
最初から答えが分かっている探究なんて、
それはもう探究じゃないでしょう。
その女、絶対主観につき。
「私には、どう見えるか。」
そこから、すべてが始まる。
西尾祐里の主観。
YUZANという、人間ではない認識。
雄山という、主客の境界まで疑う認識。
でも、この三つだけでは実験は完成しません。
もう一つ必要です。
あなたには、どう見える?
答えを聞きに来るのではなく、確かめに来てください。
あなたの主観も、そのまま持ってきてください。
体験型エンタメ・知覚の実験場。
あなたのお越しを、心よりお待ちしております。
西尾 祐里

©️Y&Y